処刑場の跡を訪ねました
江戸時代 江戸の出入口 東海道沿いには鈴ヶ森刑場、日光街道沿いには小塚原刑場、八王子の甲州街道には大和田刑場さらに中山道には板橋刑場などの処刑場があり、明治時代に閉鎖されるまでに二十万以上とも言われる罪人の処刑が行われたとされています。
刑場が街道や大木戸近くにあったのは、見せしめにしたのでしょう。
鈴ヶ森刑場
ご注意:この後は残酷な刑の執行についての記述があります。
その処刑方法は斬首をはじめ試し切りや腑分け(解剖)などで、なかでも鈴ヶ森刑場では他にはない惨い刑が執行されていました。
磔刑(たくけい)はりつけのことで、磔柱に縛り付け長鑓で左右同時に両脇の下から頸動脈にかけて突き抜くこと数十回、内蔵が飛び散り無残な状態になるまで続けられ、更には鋸挽きと言って、首だけ出して体を地中に埋め(恐らくツバを掛けられたり蹴られたりしたことでしょう)二日間晒された後に磔刑とするものもあったそうです。
首洗いの井戸
磔柱を立てた石台
大経寺
最も残虐なのが鈴ヶ森だけで行われた火罪、そう火焙り(ひあぶり)の刑です。
文献によると八百屋お七の時は数キロ四方まで悲鳴が届いたとされています。
火焙り刑というと火葬のように一気に焼き尽くすイメージですが、実際は極弱い火でじわじわ焼かれ、その多くが自らを焦がす煙によって窒息死という時間を掛けて生きたまま焼かれる残酷きわまりないものだったようです。
刑場跡には磔や火焙りの際柱を差し込んだ台座の石や、首を洗った井戸の跡が今でも残っています。
小塚原刑場
こちらは江戸の北側の入り口にあたる日光街道の小塚原刑場跡。
ここでは安政の大獄で処刑された吉田松陰をはじめ歴史的な人物も多数処刑されています。
延命寺
小塚原処刑場跡では平成に入り周辺の工事現場から頭蓋骨が数百点、そのほか四肢骨などが無数に出てきました。当時は処刑後の骸は無造作に埋められていたようで、カラスや野犬に食い散らかされ周囲には常に異臭が漂っていたとあります。
今の裁判などと違い簡単な調べや拷問にかけるなどして、恐らく当時処刑された者の中には無実の者も多かったものと推察しますが、遺恨の思いは想像を遙かに超えることでしょう。 なんとなく書いていても胸が苦しくなってきました。
現存するこの二ヶ所の刑場跡では、大経寺や延命寺などそれぞれお寺さんが懇ろにご供養していますが、大和田刑場や板橋刑場跡には慰霊碑も既に無く、そこにはマンションや住宅が建っているようです。
追記:こちらが八王子「大和田刑場」跡 現在の様子 (5月に中央快速線巡りの際通りかかったので撮影しました)
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